西瓜の首

人面スイカ

夏の果物といえばやっぱり西瓜。
というわけで、西瓜にまつわる怪談を集めてみました。


(注意:果物と生首の連想という、若干グロテスクな内容を含みます)








(1) 『怪談実話揃』より「西瓜の怪」(志村有弘『怪談実話集』所収)。

とある西瓜売りの売った西瓜が、割ってみるとどれも断面が人の顔をしている。種の並びがきれいに目や口となって、まるで女の顔のように見えるのだ。
気味悪く思った客に文句を言われ、西瓜売りは仕入れ先に真相を確かめに行った。西瓜畑の主人によると、この家では最近何もせずとも勝手に西瓜が実をつける。とても瑞々しく美味な西瓜で、この家で食べる分には人の顔など現れないという。しかし西瓜売りから話を聞いた主人には思い当たる節があった。実は以前、家の前に物乞いのお婆さんが住みついたことがあり、あれこれ世話してやったが間もなく亡くなった。亡くなった場所は現在西瓜畑となっているところだった。
念のためにとその場所を掘り返してみると、そこからひとつの髑髏がでてきた。その後、「この家の西瓜は死んだ老婆の恩返しなのだろう」と村人の間で噂になったという。


○○○


西瓜が日本に渡来した年代ははっきりしておらず、一般的に室町時代とされる。江戸時代には広く流通していたものの、その形や色が、人間の頭部あるいは血肉を連想させるといって下賤な食べ物の扱いを受けていた。ましてや昔の西瓜は「鉄カブト」といわれる模様のない黒無地のものが一般的だった。それが余計、人の頭のように見せてしまったのだろう。とくに上流人士や女性が口にするものではなかったという。
果実の丸みが人間の頭部を連想させる、という考えは現代人の我々にも通じる感覚ではないだろうか。殊にスイカにおいてはその傾向が顕著である。人間の頭部に近いサイズの球体であり、黒々した外見、しかし中身は血のように鮮やかな赤色。江戸の人々が気味悪く思ったのも頷ける。

先ほどの話は明治・大正時代のものであるという。
江戸人の感覚をより深く理解するために、次は江戸時代の怪談を紹介しよう。



(2)黄表紙『怪談四更鐘(かいだんうしみつのかね)』。

過去に多くの人間を殺した男がいた。男はその地域に住んでいられなくなったため江戸に移り住んだ。江戸では西瓜の担ぎ売りを始めたが、なぜか一向に売れない。
なぜなら彼の持っている西瓜はみな、今まで殺した人の生首だったのだ。


○○○


またしても西瓜と生首の連想である。むしろこの話において、西瓜と生首は完全に同一化されている。男の持っていた西瓜は本当に西瓜ではなかったのか。いつの間にやら生首と入れ替わったのかもしれない。それとも西瓜を見た人々の幻想か。はたまた殺した人々の怨念なのか。最初から生首だったとしたら、それは何故。

西瓜と生首はそっくりなのだ。それが、もし、入れ替わっても気づかないほどに。

ごろごろと籠に盛られた西瓜は、遠目にはそれが本当に西瓜か分からない。江戸の町を、威勢良く声を出して西瓜を担ぎ売る男が歩いているとしよう。しかしその籠に盛られているのは、もしかすると人間の生首かもしれない、と思ったらこんな怪談も生まれよう。当時の人々の、西瓜に対する薄気味悪い感覚が伝わってくるようではないか。






「西瓜と生首の入れ替わり」というとまるで推理小説のトリックのようだが、これと全く同じ題材といえば、なんといっても岡本綺堂の作品である。


(3) 岡本綺堂『西瓜』。

この作品では、西瓜にまつわる二つの怪が扱われている。

ひとつは友人の家で発見された江戸時代の随筆。その内容は、まさしく西瓜と生首の入れ替わり事件だった。
江戸の町で、丸い風呂敷包みを抱えた不審な男が呼び止められた。持っていた包みを開けさせると、なんと生首。すぐさま男は御用となる。男は主人の言いつけで西瓜を届けに行くはずが、なぜか中身が生首に代わってしまい驚いている。詮議の途中、念のためにと再び包みをほどくとそれはやはり西瓜だった。許された男が家に戻ると、包みの中はまた生首。主人が確かめるが西瓜に戻っていたので、割ってみると中から青蛙と女の髪の毛が出てきた。仕入先の屋敷には不穏な噂があるものの、結局真相はわからなかった。風呂敷包みの西瓜が、目を離すたびに生首と入れ替わるという珍談である。

もうひとつは、この友人の家に伝わる伝説。彼の家には昔、金持ちの百姓が住んでいた。しかし西瓜泥棒の老婆を撲殺して以来、この家の者が西瓜を食べると病気になって死んでしまう。持ち主が変わっても呪いが続いていると言うので、彼の家族は西瓜を食べないのである。しかし迷信を信じないこの友人は西瓜を平気で食べているが…、というストーリー。


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『西瓜』はこの二つの怪が交錯し、ぞっとするような西瓜の怪談を生みだしている。
黄表紙『怪談四更鐘』と同じく、西瓜と生首の類似性を主軸にした怪談である。西瓜が生首に化けているのか、生首が西瓜に見えるのか、どちらが本物かあやふやな状態で物語が進む不安定さがある。最初に西瓜と生首のイメージを強く印象付けることで、そのあと語られる西瓜の呪いがより恐ろしいものとなっている。これでは食べてはいけないと言われずとも食欲が失せてしまいそうである。
また、最初に紹介した「西瓜の怪」とも共通したところがある。死んだ老婆の西瓜だ。といっても先の話とは全く真逆である。「西瓜の怪」では老婆の恩返しで西瓜が生り、家の者だけに害がない。むしろ人面西瓜と老婆の髑髏というおどろおどろしいモチーフの割に、心暖まるような良い話となっている。
一方この話では、老婆の復讐ともいえる形で家の西瓜に呪いがかかり、家の者だけに害がある。ただ西瓜を食べたというだけで病死するという単純さは、ひどく現実的で、反面とてつもなく恐ろしい。


○○○





このように、西瓜の怪談はいくつもある。しかし展開やモチーフが似ているものが多く、それは西瓜に対する恐怖に共通したところがあるからではないだろうか。

そのビジュアルから生まれる、人の生首への連想。

西瓜とは血肉であり、人間の頭部である。そんなイメージを容易く想像させるような印象が西瓜にはある。
現代においてもしかり。西瓜と思ったら生首だった、などという怪談話は平成の世でも聞かれるものである。こんな話をしてしまうとビーチでのスイカ割りですら気味悪く思えてくるかもしれない。



青い海、白い砂浜。
楽しそうにはしゃぐ子供たちの声。彼らが取り囲み、棒を打ち下ろしているものは。


果たして本当に西瓜だろうか。





長文失礼しました。
こんな事ばかり書いていたら、西瓜を食べるのが嫌になってしまうかもしれませんね。


そんなあなたに、ユーモラスな見た目の西瓜の妖怪をどうぞ。

西瓜の化物

(4) 『蕪村妖怪絵巻』より、大坂木津の「西瓜のばけもの」。

木津は西瓜の産地として知られていたそうですが…。
詳細は不明なので、一体何をする妖怪なのかは良く分かりません。

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